楽譜の通りに演奏したら自分の個性やオリジナリティが出せない、そんな意見を耳にすることがたまにあります。
アドリブが必要なものだと楽譜はリードシートと呼ばれる曲の大枠だけを示したものなので、そのままやっても確かに面白くないかもしれません。
それにバロック時代や古典の作品は即興的に装飾を入れたりカデンツァを自分で作ったりすることが求められていて、その余地を残した楽譜の書き方をされてることもあるものです。
反対にちゃんと書き譜になっていてアドリブで音を選ぶ必要のない曲は、楽譜の細部に至るまで作曲家が伝えたかったことですから、勝手に音を変えたりするのは作品への冒涜になってしまいます。
ではそんな中でも出てくる奏者によっての違いや個性って、どこから来るのでしょうか。
和声や旋律によって示されている盛り上がりや落ち着きやその他色々なグラデーションの色合いなどは、解釈によってそんなに大きく変わるものではありません。
また、con fuoco(火のように激しく)と作曲家が書いたのを「オレの解釈はこうだ!」なんてmorendo(死に絶えるように)にするというようなものは、解釈の個性ではなく作品の改変です。
それでも例えばどんな落ち着き方なのか盛り上がり方なのか、変化させる度合いはどのくらいか、どの声部を際立たせるか、そんなことを考えると同じ楽譜を同じように読んでいても表現は無限に違って来るもの。
わざわざリズムを崩して書いてある音よりも長く伸ばしたり、テンポをとんでもなく速くしたりなんていう奇をてらうことはしなくても充分違いは出てきます。
「自分の個性を出そう!」「わたしはどの曲もこうやるのがトレードマークなんだ!」そんな風に考えなくても、人それぞれ考え方や話し方が違うのと同じように解釈というのは自然と出てくるもの。
それを意図的に作品を歪ませて奇をてらうようなことをしてしまうと、「この人の演奏はなんだか変だな」「気持ち悪い歌い方」という印象につながるのではないでしょうか。
作品を通して自己主張がしたいのか、それとも作品の良さや魅力を聴く人に伝えたいのか、個性について考えるときには心に留めておきたいものですね。