「こんなの全力じゃなくても簡単に吹けるよ」という演奏を聴いた時、すごいとは思っても感動はしていないかもしれません。
逆に大切な本番で失敗したときにも本人以上に批判している人はいないもの。
聴いた人が本当に心を動かされる演奏って一体どういうものなのでしょうか。
共感はテクニックでは得られない
たとえばアスリートの試合やスポーツを観戦しているとき、選手が難しい技を軽々とやっていたら確かにすごいとは思いますよね。
でも持ってる技術がすごいから応援しようと思うかというと果たしてそれはどうでしょうか。
技術の凄さに感銘を受けるのは同じ競技をやっていてその技の難しさや必要な努力の量を知っているから驚くということが多いかもしれません。
同じように心を動かされる演奏って奏者や作品に共感できたり、勇気を持ってチャレンジしているプレーヤーの姿を自分に置き換えてドキドキワクワクしたり、予想していなかった思わぬところまで一緒に連れて行ってくれたりするのが楽しいのですよね。
反対に自分に関わりのない業種のテクニックがすごいだけの職人技に共感することなんてきっとほとんどないでしょう。
技術の凄さもピンとこないしどれくらい頑張るとそれができるのか想像もつかないでしょうから。
テクニックより背景で応援される
演奏の本番のステージに立った時「すごいところを見せてやろう!」なんて思って気張ってみてもそれは演奏とは関係のない意図なので空回りして思わぬ失敗をするでしょう。
さらに軽々とやってる風を装ったり楽勝を気取ってはも共感はされないし自分もエネルギーを注ぎきれずパフォーマンスの質もイマイチになり、結局は誰も得をしないのです。
もしかしたらあなたを長年応援してくれている人には「今はここまで来られました」と努力の成果を見せることができて時には感動してもらえることもあるかもしれません。
でもそれは「テクニックすごくて感動した」ではなくて「すごいことが出来るようになるまで努力を積み重ねてよく頑張ったね」という感動でしょう。
あなたを初めて見た人が「知らない人が何かわからないことを軽々とやっていて感動した」なんておかしいでしょう。
奏者や作品や演奏難度などの背景があってこそ、「この曲がこんなに素敵になる」というのが楽しい驚きになりうるのですよね。
軽々と難しいことをやってみせる、そんなことは目指さなくても良いのです。
泥臭くなりふり構わず全力でやっている姿を隠さなくて良いのですよ。
失敗したらそれを教訓にしてまた立ち向かえばいいのです。
その必死な姿こそが聴く人の心に訴える表現を生み出す要素のひとつなのですから。
失敗を隠したい気持ち
真剣に向き合っている姿が傍から見て美しいのもなのだと頭ではわかっていてもやはり一生懸命やっている姿を他人に見せたくない気持ちになるのはなぜなのでしょうか。
「必死に向き合ってきたのに目標に届かなかったら自己肯定感が下がる」
「失敗したところを誰かに見られるのは恥ずかしい」
「こんなことも出来ない無能なやつだと思われたくない」
「必死で練習しなくても出来る才能のある凄い人だと思われたい」
そんな風に他人の目によって自己肯定感を保とうとする気持ちが心のどこかにあるかもしれません。
もしかしたら他人に見られないうちは事実だと認識しないで済むと思っているのもあるかもしれませんね。
頑張ってもできなかった人ではなく自分はチャレンジなんかしてない、だから失敗したわけじゃない。
そんな風に「やれば出来るはずだけどやらないだけ」と酸っぱい葡萄の余地を残して逃げ道を作っていたり。
でもチャレンジしてないから失敗もしていないという人を誰が応援するでしょうか。
立ち向かわない人にどうやって共感するのでしょうか。
失敗する姿こそが魅力
転ばない成功者がいないことは誰でも知っています。
悔しい恥ずかしい思いを一切せずにうまく行かせられる人がいないこともわたしたちはちゃんとわかっています。
あなたは周りの誰かがチャレンジしてたとえコケたって「ざまあみろ」とか「無能だな」なんて思わないでしょう。
きっと温かい目で「がんばってるね」「次は上手くいくと良いね」そう思っていますよね。
同じようにあなたが頑張っている姿もちゃんと応援されていますよ。
もっと失敗しろと思っているのはあなたの能力を認めて脅威だと感じている人だけ。
他人には見せられないと本人が思うような頑張りこそが、人が応援したい姿であり見た人の心をも鼓舞するパワーになったりするもの。
そしてそれが見せられる人の方が有効なアドバイスを得られたり頼れる人を紹介してもらえたりしてサポートだって受けやすいもの。
だって頑張ってる姿というのはその人の魅力なのですから。
そのせっかく持っている強力な魅力をわざわざ隠してしまうなんてもったいないのかもしれませんね。