音楽と言葉の関係についての興味深い本を読みました。
有吉尚子です。こんにちは!
それによると西洋音楽をするわたしたちにとって、日本人であることの影響はやはりあるようです。
でもそれは体格とか骨格とか生まれつきの問題ではなく、身に付けてきた生活習慣や言語によるところが大きいそう。
そう考えると日本人だから、と諦めることはありませんよね。
その本の中で興味深かったことを簡単にご紹介します。
まず、アクセントについて。
日本語には息でアクセントをつける発音というのがほとんどなく日本語のイントネーションにあるアクセントは音程の高低によってつけられているそうです。
対して例として出されている英語はもちろん高低もありますが、強弱のアクセントがある、と。
言われてみると確かにそうですね。
日本語は音の高低でニュアンスを表現しているところがあります。
強弱のアクセントは息の圧力を使いはっきりした主張に感じられます。
そして日本語の会話では、はっきりした主張はあまり好まれません。
どちらかというと高低のアクセントは柔らかく感じられますもんね!
次に母音の扱い。
日本語では一つの子音に対して一つの母音がついています。
(です、ます、の「す」は例外的に子音だけで発音しますが。)
子音はキツくならないように柔らかく発音し、その後の母音をとても重視して、その母音の具合で感情やニュアンスを表現しているのが日本語の習慣なのだとか。
これも確かに!と思わされます。
子音をはっきり発音するには息のアクセントをつける必要があり、その息のアクセントをつける習慣があまりないわけですもんね。
よく歌い回し方で指摘されることの多い音程をまっすぐ保てない、というのはロングトーンの技術不足な場合だけでなくまっすぐではない方が通じやすいというコミュニケーションの習慣も関係しているのかもしれませんね。
もうひとつのトピックは発音のタイミングについて。
ヨーロッパの言語は狙ったタイミングに子音が合うように、そのタイミングより早くから息を流し始めて発音の準備をします。
対して日本語では、狙ったタイミングから発音の準備をし始めるので、日本語の発音の核となる母音は狙ったタイミングから遅れて発音される、と。
これはまさに演奏でもよく見られる「後押し」の原因になることですね!
そしてさらに語尾の処理について。
はっきりモノを言い切らず、相手が察してくれるのを期待して語尾をにごす。
こういうコミュニケーションに慣れているために演奏時にも語尾が曖昧なままでも変な感じを受けずにいる、それに演奏者も聴く側も日本人ならなおさら違和感を感じにくい、とのこと。
フレーズの最後の切り方まで意識が行き届かない場合がよく見られるのは、こういう文化的な側面も関係していたのですね。
普段は何気なく会話でやりとりして改めて意識することは少ないですが、どれもなるほどと思わされることばかり。
色んなことが述べられてましたが総合的に見てみると、日本人に多く見られる傾向として歌って!という指示を受けると発音を遅らせて後押しをしつつ音程を動かす、ということによく表れている様子。
語尾の曖昧さについては、西洋音楽は語尾こそが結論というか色々展開してきた音楽作品の解決部分というか、とにかくとても大切な部分です。
消え入るように締めくくるのか、はっきり言い切るのか、誰かに受け渡すのか。
どうなるにしろ曖昧にいつの間にか終わっていた、なんてことはありえません。
処理が甘くなっていることに気が付きもしていないとしたら、恐ろしいことだと思いませんか?
わたしたちは普段もっている習慣には気付きにくいものですが、日本人として西洋音楽をするには知っておいて損の無いことが他にもたくさん書いてありました。
興味があればぜひ読んでみてくださいな!
傳田文夫著
「日本人はクラシック音楽をどう把握するか」
芸術現代社より