ごちゃごちゃしてると話題になりがちな吹奏楽部の楽譜の書き込み。
別に深刻な問題ではありませんが楽譜が可哀想とか元々書いてあることが読めないとかプロはそんなに書き込まないとか色々なことが言われます。
実際のところ楽譜への書き込みってどうなのでしょうか。
楽譜への書き込みは善か悪か
楽譜に色々とメモ書きをすることはあまり肯定的に言われないものではありますが、書き込みそれ自体は悪いことと言い切ることはできないかもしれません。
なぜなら指順や一緒に出るパート、間違えそうな箇所をマークしたり演奏をより良くしたいという想いで書き込んでいるのですから。
気合い!根性!一音入魂!
などの書き込みも若者の一生懸命さが出ていて好感が持てますし、きっと後で見返したら暑い夏を懐かしがることのできる大切な思い出アイテムにもなることでしょう。
もしかしたら大人になるとあんなにたくさん書き込みをして楽譜が見えなくなっても平気なほど練習をするのは難しくなるので書かなくなるのかもしれません。
時間のない大人奏者は書き込みによって音符が見えないという状況は大変困るものですから。笑
見えなくて困らないということは、実はちゃんと暗譜ができているということの証明でもあります。
賛否両論ありますが返却など不要な自分の楽譜なら好きなだけ書けば良いという意見があってもいいでしょう。
実は役に立っていることも
それに他人からすると一見訳の分からない記号でも、本人にとっては大切な表現上のメモだったり、作品全体を俯瞰して見られているからこその全体のテーマを図にしていたりするのなら、そのリマインドのためのメモを禁止する理由はありません。
むしろ本当は演奏中には「次の音は何だろうか?」なんていう初歩的なことではなく作品をどう表現するかを考えたいもの。
「この部分は旋律がどうなって他のパートがこうなって、だからこういうイメージで吹こう!」
というのがあるのは素晴らしいこと。
大人になってからあの頃のように時間をかけて丁寧にひとつの作品に向き合ったことがあったかどうか思い出してみたくなるものですね。
書き込みが邪魔になるケース
では次に書き込みが邪魔になってしまうケースを今回は考えてみましょう。
楽譜がごちゃつく
まずひとつめの書き込みによる弊害としては見た目がごちゃつくこと。
これはたいした問題ではありません。
そもそも楽譜に書かれていることがちゃんと全てわかっていてそれを演奏に反映した上でならごちゃつきが不快かどうかは本人の性格次第です。
もちろん音符しか覚えていなくて強弱やアクセントその他の楽譜上の指示を見落としていたり和音や旋律の流れにどんな意味がありどんな表現を求められているのか把握していない場合はちゃんと楽譜を見る必要があります。
譜面台を共有するとき
もうひとつ書き込みがない方が都合が良いと思われるケースは隣の奏者と二人でなどひとつの譜面台で誰かと一緒に見ながら演奏する場合。
オーケストラの弦楽器などではそういう見方をするものですが、覗かせてもらう側からすると他人の書き込みによって楽譜が見えないのは確かに困るものです。
借り物楽譜の場合
それからこれは当たり前ですが自分で購入したわけではない返却が必要な楽譜の場合。
借りたものはきれいに返すのがマナーというのもですね。
インスピレーションを大切にしたいとき
そして最後にもうひとつ、暗譜できていて表現したいイメージなども明確な奏者がもう一歩進むのであれば期待したいのはこんなこと。
瞬間芸術である音楽は二度同じことを再現するのは不可能なものです。
どんなに同じにしようとしても会場や奏者や気候やその他の要因で微細な違いは必ず出てくるもの。
それなら演奏中に見えてくるかもしれない新たな情景に心を開いておいて毎瞬新しく作品と出会い直し表現を作っていくこと。
つまり大事な局面でこそ湧いてくる新たなインスピレーションを演奏に反映させるということ。
それができたらよりみずみずしく新鮮な演奏になるでしょう。
そのためには事前にかっちりイメージや表現を決めないというのもひとつの手かもしれません。
そうなると今度は書き込みによって自分のイマジネーションの幅が制限されないために新しいまっさらな楽譜を使ったり、場合によっては暗譜の方が都合が良かったりもします。
音楽への向き合い方が表れる
書き込みをするかしないかという単純な話題ですが、掘り下げてみると意外と音楽への向き合い方がそこに表れていて大変興味深いものでした。
あなたの楽譜はどうですか?